昭和五十六年十一月十一日 朝の御理解
道教えの大綱 (教えではなく「道教えの大綱」ここの所を頂かれた)
一 今月今日で一心に頼め おかげは和賀心にあり。
一 疑いを放れて広き真の大道を開き見よ わが身は神徳の中に生かされてあり。
一 生きても死にても天と地とはわが住みかと思えよ。
一 天に任せよ 地にすがれよ。
一 神はわが本体の親ぞ 信心は親に孝行するも同じこと。
お道の信心をさせて頂くなら今、金光大神の信心がどんなものかと言う亊を分かる亊なんですけれども、今、読んでもらいました五ケ条ですかね。この五ケ条のみ教えだけでも、まあ平凡といや、平凡ですけれども金光大神の信心をするなら、これだけの亊は分かっておかなければならない。これだけの亊は実行出来なければならないとまあ、言うわけ。ね、その中に今、申しますように、その為には先ず、疑いを払えよとか、天に任せよ 地にすがれよとか、言う所がございましたよね。だからそれを信じれる、私は信心の稽古、それをいよいよ確信にまで高めていくという亊が、私はお道の信心の確立だと思うんです。その信心の確立を誰でも実感として頂ける手立てが私は合楽理念だと思うんです。疑おうにも疑いようがない。先ず疑いをされよ、とこうあるのだし、又いよいよの時にはね、天に任せ、神様におまかせする。任せるだけじゃありません。地にすがれよ、とあるです。ね、まかせる、まかせてすがる。これがまあ、お願いをさせていただく者の根本的姿勢なんです。任せてすがれ、そういう亊を分からせてもらう。そして合楽理念によってそれを体験 さしてもろうて、成程そうだと言う亊が分かる。そこからですね、言うなら金光教の信心を語ると言う亊になるのです。私は今朝方お夢を頂いとりましたが、もうこの金光様の御信心はもう一切をこう何と言うですか、溶かしていくと言うかね。三角の中に、四角の中に、いろいろな格好の中には入っていく、そしてその中の物を溶かしながら、そしてこれを丸くしていくというそういう働きを持っておるのが金光大神のみ教えだという意味のことを、まみろんな角度から頂いたんですけれどもね。所が果たしてそれを本当にそうだと確信出来れる人がどれだけあるだろうか。ね、お道の信心の布教という亊について先日も、教報を毎月、本部の方から送って来ます。御本の中にいろいろたくさんな、まあ大事な亊が出ております中に、特この布教という亊についての、まあ大変よいお話が出ておりましたが、結局その何というでしょうかね、方法論なんです。ね、布教の為にはこういうふうにせにゃいかん、こうあらなければならんと言う亊ばかりであってね、例えば金光教の信心の今日のなら、御理解から言うと道教えの大綱と言うものを頂かずして、踏んまえずして、そして疑いを去れ。本当に神様を信じる手立てと言うか、いよいよん時にゃ、天に任せて地にすがるという生き方をもってそこに実験し、実証していって行くならば黙っておっても一切を溶かしていく。しかも丸く溶かしていく。これはとてもなら五年、十年で出ける亊。もうこれこそなら、、合楽理念がなら千年万年の後でもですよね、そういう働きをしながら進められていくわけでしょうけれども、ね、これはなら家庭の中でもそうです。信心があるか、ないとか言うけれども本当に言わば合楽理念に基づいていったら、その周辺を溶かしていく、必ずおかげになる。子供が信心せんとか、家内が信心せんとか、主人が信心せんとかと言ってますけれども、もう例えば今日の道教えの大綱と言うような、ならここの今日はこれはどうでしょうか。二十カ条位あるでしょうかね。その中のまあ、この五ケ条を読んでもらって、この五ケ条だけでもね、あのう、そうだと信じて分からせて頂いて、言うなら合楽で言われる天地日月の心を芯にして、まあ、そのまあもっとも合楽で言われる、黙って治めると言う亊。この生き方をね、本気でここん所をふんまえて、その生き方になれば必ず、もう一切をいわゆる和賀心で溶かしていってしまう。先達てから頂いた、本当に一つの川に染め上げてしまう。そういう働き力を持っておるのが金光教の教えです。ね、ですからそのただ、方法論だけではなくてね、例えばこういう大綱的なもの、ね。金光教の信心しとりゃこれだけの亊は身につけとかねばならない。これだけの亊は知っとかなければならない。しかもそれは体験をとして、それをいよいよ確信する亊が出けれる。いよいよの時にはいわゆる、まかせきる信心、そして地にすがっていく。天にまかせて地にすがると云う信心の姿勢と云うものをですよね、いよいよ体験していくと云う亊。どでしょうかだんだん信心をさせて頂いていく中にいわゆる、疑おうにも疑いようのない程しの、一つ体験を頂いていきたい。本当に天に任せきると云う亊はこんな亊だろうと思う。いわゆる任せ方。そしてすがる。一心にすがる。その信心を身につけていきたい。昨日のお月次祭にも申しましたように、昨日もう私、夕食をしようとしとる時でしたが、若先生がやって来まして、今日、南米から手紙が来たと、それでその手紙の中には勿論、金光教の信心をと云う亊ですけれども、なかにも合楽理念をこれこれの原稿用紙にまとめて送ってくれと。それこそブラジル中に広がっておる、一番、一流の、一番大きな新聞だそうですが、それにその宗教欄に金光教を取り上げ、特に合楽理念を取り上げると云う亊になったからと云うのですよ、ね。もうすでに中に入って広める働き、合楽理念が、合楽理念と云う亊をそなえられるようになった。或る御本部参拝の時に、御大祭を頂きながら頂いたのが、合楽理念を神様はは入って広める、いろいろの手立てをもってじゃなくて、それこそなにもかにも、こう溶かしていくだけのね、その内容を持っておるのが金光教の信心であり、それを如実に表わしておるのが合楽であり、合楽理念による合楽の信心である、ね。それがなかなか、それを黙ってそれをこう治めて広げていこうと云うのですからね。けどもそういう内容をもっておる信心だと云う亊をです、皆さんが分からないと、本気でその実験実証しょうという心もおこっていない。ただおかげを頂く亊の為にだけ、ただ実験実証ではいけない。今日、今、ただ今の五ケ条だけを読んでもらいましたが、五ケ条だけでも自分のものにする。いやそれを知っておくというね、それを土台にしての天地日月の心であり、いわゆる成りゆきを大事にするであり、黙って治めるであると云う亊。ね、基本的な所。そうですね、やっぱり道教えの大綱とありますから。道教えの大綱もう一遍この経典をまあ、皆さん開いてあのう十、わずかばかりですからね。この一ケ条、一ケ条を読ませて頂いてです、そういうものがそうだと分かる亊とそれを信じると云う亊。ね、なかなか疑いを去れといったような亊でもなかなか、一ぺんに疑いがされるものじゃないですけれども、合楽理念をもって本気で稽古させて頂いたら容易にでけれるんだと。しかも誰でも出けるんだと。こんなにも間違いがないと云う亊が分かるんだと。ね、そしてこの大綱を土台にしての合楽理念。そこにわね、今云うならば成就せぬ亊なしという亊になるでしょう、ね。それが少し、すこしこうね、どんなに反発、反対、悪口云うとってもそれを全部丸くしていくと云うか、云うて聞かせて分からせると云うのではなくて、まずはそういう土台的なものをふんまえて、我々、一人一人がこの大綱の一ケ条、一ケ条をそうだと確かにそうだと信じられる。そしてそこに実験していけれる姿勢をいよいよ合楽理念によって、本当なものにしていく。信心の確立といわれるのは先ずそういう所から分かっていくと云う亊ではなかろうかとおもいます。そういう働きがね、起こってくる、自然と。もうこりゃ本当にそうですばい。もう家の子供達や、もうとても難しかというこつは絶対ない。それでなら参れの、拝めのといわんでもね。もうこっちがいわゆるそういう、こういう信心を土台にしていく限り、もう絶対にそういう亊になってくるです。昨日お祭りの時に正義先生がこの頃、夫婦でいつもこう、参拝して来ます。ろれでお届けがありましたのに、今日はあちらの築豊支部大祭。総代として先生行くはずでした所が、のっぴきならない事情で行けなくなった。ね、それであのう明日は、私の代わりに家内がおかげ頂くと申しておりますから、というお届けがあったんです。なかなかもってあれだけ熱心な、あれだけの信心しとられるのに、奥さんがついてこられんちゅうのはおかしい位に思いよったけれども、それこそ参れ、拝めのじゃなくてね、いつのまにかこう溶けてこうやっていきよんなさるとですね。いわゆる主人の信心に溶け込んでいきよんなさる。明日は主人の代理でなら今日ですね。おかげ頂きたいというお届けがありましたように、さじを投げちゃならん。問題はさじを投げるよりか、たとえばこの基本的な所の信心をいよいよ身につけて、そしてまかせて、すがる生き方を身につけていくならば必ず成就する。それがね、なら三年、五年、十年という亊ではないですけれどもね。必ずおかげになるという亊を確信しての信心。それにはこの基本的なものをいわば身につけずして、ただ枝葉の所だけを言うたんじゃつまらん。基本的な所を身につけて自分自身がそれをいわゆる確信していく。ね、疑いを去って行く。天に任せて地にすがる信心をいよいよ身につけていく限りおかげになっていくと今日は私、説明がない程でしたけども、勿論、今度のブラジルの何とかと言う新聞に原稿を送ると言う。あの新聞社に直接送ってくれと言う亊ですから、まあ、送る亊になりますでしょうけど、そんな亊を思っておったからでしょう。やっぱり今、言う南米ちゅうかね先ずはブラジル国に、を言うならばとかしていくと言う働きがね、あのう起こっておると言ったような亊を感じますですね。 「どうぞ。」